故郷を失った社会学:底の浅い民間信仰研究を自省する

先便で「一遍と時宗に興味がある」などと記したが(柳宗悦以来の実にありきたりなテーマ)、まあ所詮にわか勉強でしかない。はじめて『一遍聖絵』を通貫して見たとき、一遍入寂のところではじめて「あれ、これ地元やん」となったのである。上人入寂の地、いにしえの大輪田泊の真光寺は私の実家から1キロと離れていない。亡父の母校須佐野中学(ただし途中で神戸高校に行くために越境転校)はその隣である。しかし全く記憶にない。(路面)電車道の向こう(兵庫)運河の向こうは、子どもは行ってはいけないところだった。しかしそれ以上の何かを感じる。

運河のこちら側、同じ時宗の薬仙寺はうっすら覚えがあるが、うらぶれた印象でしかない。天平創建の名刹なのに、なぜ。今調べると、私の子どもの頃にはまだ空襲で焼けた本堂がなかった。私の町は焼けずにすんだが、三菱造船所の周りはもちろん丸焼けで、隣の鐘紡の、武藤山治が建てた豪壮な病院はまるごと真っ黒な廃墟のままだった。

三菱の工員を運ぶ和田岬線の駅横に和田宮、三石の2つの社がある。それらは初詣に行くこともあったので多少覚えている。ただ実家は商売屋なので、山の手にある長田神社がメインだった。その長田神社の神輿が昔はうちの近くまで来てたんやで、と亡父は言っていた。どこに?あの吉田町の原っぱや。ええ、あそこただの駐車場とちゃうの?今神社のホームページを見るとずっと神輿の巡幸があったように読めるが、子どもの頃見た記憶がない。

さらに和田宮(和田神社)のホームページを見ると「だんじり」が出るという。長く中断していたが、私が町を出た後に復活したらしい。うちの町に「だんじり」!もうさっぱり訳が分からん。

こんなのはとても望郷の念とは呼べないだろう。都市祝祭の社会学というのがどうもよく分からなかったのだが、これで腑に落ちた。ない袖は振れぬ。

幼い頃の祭らしいことの思い出はただ1つ。8月23日の地蔵盆の、狭い路地の奥、薄暗い天幕の下で、しわくちゃのお婆さんからもらう生姜板。美味しくない!

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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