服部(ハッタリ)史学の源流を訪ねて:島根県浜田市旭町木田

歴史家服部之総に興味を持ったのは、日本都市社会学会に入会してすぐにテーマ部会の報告者に選ばれたときである。「戦間期の東京」というテーマだったと思う。当時の私の研究は米騒動止まりで、そこから先は一から勉強だったが、若い野心が燃え上がったのを覚えている。私が見つけ出した題材は「東京帝大セツルメント」だった。関東大震災後、東大の学生たちが下町(今のスカイツリーの真下)に施設を自前で建てて福祉事業をするという話である。愛読する都市社会学者磯村英一の回顧談に何度も出てくるので、いっちょう調べ上げてやれと思ったのだ。盛り上がった私は、当時親しくしていただいていた故北川隆吉先生のところに自慢しに行った。バカだねえ。忘れられません、その時の北川先生の呆れた顔。北川先生は戦後再建された川崎古石場の東大セツルメントの顔役の1人でした。

面白かったが困ったのは、いくら資料をあたっても磯村英一が出てこないのだ。代わりに出てくるのが服部之総。施設の設計を早稲田の今和次郎に頼み、対価として今の考現学調査を手伝い(H氏)、『社会学雑誌』に現状報告を書き、集まった八っあん熊さん相手の授業は連日満員、まさに顔役。結局学会報告は、服部と(悪友に巻き込まれた)喜多野清一を使って磯村の学生時代を推し量るという、苦し紛れなものになってしまった。案の定あまり関心を呼ばず、鈴木廣先生から「(日本のマルクス主義の歴史の)勉強が足りない」というお目玉を頂戴しただけだった。

でも捨てる神あれば拾う神ありで、川合隆男先生が『近代日本社会学者小伝』で服部を書いてみないかと誘ってくださった。ただし一緒に新明正道と清水幾太郎も書くという条件つきで。これは若輩にはキツかったすよ。七転八倒したっす。幸い新明の方は直門の田野崎昭夫先生にほめてもらったが、清水の方は後で研究した人たちから軽視と罵倒の嵐、ハハハ。

その服部の伝記を生まれ故郷の山村から書き始めたが、どこのどんな村かよく知らずに全くの想像で書いた。当時はストリートビューもないしね。それから四半世紀、ついに現地、島根県浜田市旭町木田を訪れたのである。

左が服部の墓と生家の寺木田正蓮寺、その谷向こうにあったのが右の豪農家、今は廃墟(いっけん豪壮だが壁の裏はすべて取り払われて荒蕪地に)。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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服部(ハッタリ)史学の源流を訪ねて:島根県浜田市旭町木田 への2件のフィードバック

  1. 竹村英樹 のコメント:

    6月26日に川合隆男先生が山形でお亡くなりました。享年83歳。
    『小伝』の仕事でご一緒できましたことは、川合先生と門下生たちにとりましてしあわせなことだったと思っております。中筋先生が師の名前をあげてくださっていたことを思い出し、書かせていただきました。

    • 中筋 直哉 のコメント:

      竹村先生、書き込みありがとうございます。川合先生のご訃報は堀川先生よりうかがい、悲しく思っております。弟子でない私たち夫婦にもほんとうによくしてくださいました。先生に教えていただいたことを忘れずにもう少し先まで勉強していきたく思っております。

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