必要があって研究室の書架の奥の奥から『法政大学社会学部50年誌』を探し出した。ここに移った次の年に刊行されたもので、命じられて「服部之総『明治の五十銭銀貨』再読」という小文を書いた。一番最近赴任した人に、ということだったのだろう。小文集の最後に掲載されている。幸いなことに、刊行後ある職員の方から「面白かったです」と言われ、またOBの高橋彦博先生からも、面白かったとどこかに書いてもらった。
必要というのは服部之総が赴任した経緯を確かめたかったのである。しかし、そのことを書いているのは北川隆吉先生で、それでは私が聞いた話と同じだから意味がなかった。ただ「学部の創立メンバー」というのは私の勘違いで、戦時下の国策機関である協調会中央労働学園以来の教員ではなく、1952年の創立後に最初に採用されたのが正しい。理由はやはり(旧)文部省的に東大出の社会学者が必要だったということだろう。
今回見て気づいたのは、慶應医学部出身の衛生学者籠山京(貧困研究では必読)が、満鉄衛生部長から引き上げてきた後ここにいたが、創立2年目に北大に異動したこと。北大時代の教え子が鎌田とし子先生である。鎌田先生は鈴木栄太郎より籠山の方が面白かったとおっしゃっていたが、さもありなん。独立独歩の鎌田先生とちがって、鈴木と籠山の忠実な弟子だった布施鉄治先生は、最初ここに採用された(佐藤毅先生と同期)。4年間だけで北大に戻っていったのではあるが。
50周年の歴史の中心には北川先生がいて、ここは東大社会学の植民地だったが、70周年の今、見る影もない(約70人の教員のうちたったの5人)。まさにポスコロ、とてもよかったと思う。