戦争で破産した学問:及川宏と旧仙台領増沢村調査3論文

この項、前稿に続く

農村研究の分野でも先の大戦で失われた命がいくたりもあった。よく知られているのは自然村概念を創った清水三男(1909年生、シベリア抑留で死亡)、大塚久雄の法政時代の弟子だった戸谷敏之(1912年生、フィリピンで8月15日より後に戦死)、そしてここで取り上げる及川宏(1911年生)である。及川は戦死ではなく、戦時下で国策的調査の無理が祟っての病死である。

及川の3つの論文「分家と耕地の分与」「同族組織と婚姻及び葬送の儀礼」「所謂『まいりのほとけ』の俗信について」は名著の誉れ高いが、私には今ひとつ価値が分からなかった。だからずっと調査地である旧仙台領増沢村(現奥州市江刺岩谷堂)を見てみたかった。今回念願叶った次第である。

訪れて分かったのは、調査地の感じをよく伝えているから名著だというわけではないということだ。もちろん全く違うというのではない。ただ挿入された地図と現状の家並みは必ずしも合わないし(80年という歳月や構造改善事業の効果を差し引いても)、ゆるやかな西下がり(日当たりがよい)で水の豊かな土地の感じも伝えていないのである(かなり急な東下がりで用水がなければ水の乏しい煙山とは対照的)。ではなぜ名著とされたのだろう。帰って考えるに、やはりそれは当時最大の知的脅威とされた在野の有賀喜左衛門の(超歴史的な)家連合論に対する、東大社会学の反撃の狼煙だったからだろう。戸田貞三は鈴木栄太郎を中心に分家慣行調査を組織し、自らの小家族論と実証主義(と社会変動論)によって有賀理論に反撃しようとしたが、その先鋒が及川だったのだ。

もう1つ忘れてはならないのはこの3本の論文が掲載されたのは『社会学雑誌』(『社会学評論』の前身)ではなく『民族学年報』だったことである。(有賀の親友である)渋澤敬三の趣味のアチックミューゼアム(屋根裏博物館)から発展した民族学研究所は、ジャーナルとして『民族学研究』(『文化人類学』の前身)を逐次刊行する一方、デュルケムの『ラネ・ソシオロジック』(社会学年報)を範にとった論文集も刊行しようとした。実際には1938,1939,1940-41の3ヶ年分しか出されなかったそれに、毎号及川の論文が掲載されたのである。ちなみに同じく毎号掲載されたのは馬淵東一(1909年生)と古野清人(1899年生)で、喜多野清一(1900年生)は39年号と40-41年号(いわゆる大垣外論文とその続編)である。だから3論文を復刻する追悼本『同族組織と村落生活』(1967,未來社)は、喜多野が編み、喜多野と古野の追悼文を収録したのだ。

ここにも1つの交差点がある。貴族院議員建部遯吾がはじめた日本社会学と貴族院書記官長柳田国男がはじめた日本民俗学は、第二世代で限りなく接近した。その研究の焦点は「家族と村落」だった。ところが戦争の色が濃くなると、それらは国策としての植民地研究に変貌していく。趣味の民族学研究所は大東亜省所管民族研究所となり、所長には社会学者の高田保馬が就任した。また出先機関として中国張家口に西北研究所が置かれ、生物学者の今西錦司が後に人類学者として育っていく弟子たち(その若頭がウメサオ!)を集結させた。西北研究所と関連して設置された蒙疆協会を指揮したのはこれまた社会学者で、柳田の個人誌『民族』の(有賀、岡正雄とともに)同人だった田辺寿利だった。つまり日本社会学と日本民俗学が最接近したのは(戦後からみると)非常にヤバい理由だったのだ。及川はその真只中にいて、古野に連れられて蘭印(インドネシア)に調査に赴き、元々弱かった身体を壊して死んだ。そして戦後、ヤバい研究の一端を担ってはいたが、以上の流れとはほぼ切れていた福武直が、この分野のスターとして登場するのである。

及川が死んでいなければ福武(1917年生)に代わる、あるいはウメサオ(1920年生)に代わる社会学・文化人類学のスターになっていただろうか。たぶんそうではなかっただろう。戦間期日本の社会学・文化人類学の破産を背負って、彼は黄泉に赴いたのにちがいない。

写真は中野卓『口述の生活史』の口絵写真を真似て撮ったもの。近景は2000年代の中山間地域直接支払制度、中景は1970年代の構造改善事業の圃場整備、後景は1990年代のトヨタ東北進出に連なる工業団地開発が写っている。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 私の「新しい学問」, 見聞録, 読書ノート パーマリンク

戦争で破産した学問:及川宏と旧仙台領増沢村調査3論文 への2件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    国道4号線をレンタカーで走っていると、私の家のある名古屋へ向かうトヨタ専用貨物列車が横を爆走していった。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    北上両岸の農村のちがいを、晩年7年間西岸で暮らした高村光太郎!は西岸は土地が痩せていて人柄が純朴、東岸は土地が肥えていて人柄が功利と指摘している。

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