江東深川の2つの思い出の場所を訪ねて

江東深川、白河三丁目の交差点にはじめて来たのは1988年大学4年生の秋だった。バブルで盛り上がりまくっていた東京改造を卒論のテーマにしたものの、結論をどう落とすか決められず町に出てみたのである。そこには関東大震災後に建てられた同潤会アパートが建っていた。東京大空襲で焼かれた壁が不気味で(私の故郷にも同じような建物が残っていたので分かる)、外からは廃墟にしか見えなかった。しかし中に入ると長く住む人びとが部屋や廊下を上手に棲み熟していて、ああこれだと思った。だから結論はどんな妄想的で非人間的な都市計画も建築も、人びとはシロアリのように棲み熟し、自分たちの居場所に変えていくはすだと書いた。

大学院に入ると指導教官の蓮見音彦先生は「君の修論には社会が必要だ。社会学だからね」とおっしゃった。これはとても重い問いで、1年間呻吟した末に何とか見出したのが都市の公共空間を埋め尽くす群衆と、その創発的な行為である都市騒乱だった。そこから先は、同業の方々はご存じの通り。

同潤会アパートは写真の通りレプリカを残して消え去ったが、代わりに深川には2つの公共施設が建った。その1つが今日の目的地の東京都現代美術館で、建築家「吉阪隆正展」を見に来たのである。卒論を書いた頃読んだ藤森照信『昭和住宅物語』(1990,新建築社)に、日本建築学会長だった吉阪が大会シンポ会場に現れるや柔軟体操をやろうと声をかけたことを書いて、その天才肌を伝えていたのを思い出したから。一般的には、ゼットンの光線をウルトラマンが避けたので壁に穴が空いてしまった大学セミナーハウスの設計で知られる。

私見では彼は天才ではなく秀才だ。2人の師匠、今和次郎とル・コルビュジエの好いところを合金すると吉阪になる。つまりよく学んだということであり、学びに左右されない生得的な狂気はなかった。精力的だが健全な人格。だから建築はすべて愛のある家族の住む住居の拡張版になる。住居こそモデュロールなのだ。まあでも、モデュロール=尺という訳はいいな。まさにその通りなのだが、メートル法の私たちにはけっしてできない訳。

悲しかったのは福武直と同じ1917年生まれの長男なのに、応召して次男の中野卓と同様中国戦線を引き回されたこと。東大ではなく早稲田だったから?そうではなく父親(東大同級の大内兵衛の親友)が内務省の高級官僚だったので、陸軍に嫌がらせされたのだ。生きて帰れてよかった。山岳部で体力があったのが幸いだったかも。

行きは新宿線菊川から歩いたが帰りは半蔵門線清澄白河に回った。8年前病気の最初の「発作」が起こったのがここだった。全くのトラブルでアメリカ人2人(ウェストポイントの軍人!)を市ヶ谷キャンパスから深川江戸資料館(2つめの公共施設)に連れて行くことになってしまい、招待元とは全く連絡が付かず、途方に暮れるうちに目の前が真っ暗になって、心臓はドキドキ、汗はとめどなく噴き出した。でも気の毒なアメリカ人をほったらかすわけにも行かず、何とかここまで連れてきたのだ。幸い招待元と落ち合えたが、その後どうしたか覚えていない。

犯行現場ではないが、もう一度来てみたら、辛いは辛いがもう完全に思い出になっていた。ちょっとうれしかった。ちなみに資料館は改装休館中。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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江東深川の2つの思い出の場所を訪ねて への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    面白かったのは吉阪建築の原点である自邸の壁が、壊された市ヶ谷キャンパスの55・58年館のそれと同じブロック塀だったことである。やがて「コンクリート打ち放し」というバブリーな建築言語に発展していく元は、貧しいブロック塀だったのだ。いや貧しいと言ってはいけない。ブロック塀なら自分で作れる。「打ち放し」はカネにしかできない。

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