すべての人びとは姉妹兄弟となる:「第九のきせき」展を見る

いつも通り合唱と管弦楽の全奏が「よろこびよ、それは神々の火花」と歌い上げた後、合唱は沈黙し、加速した管弦楽が神々の火花を象徴して曲が終わるはずが、白い手袋をした子どもたちの一団が管弦楽の奥で最後まで手話で「火花」をいっしんに示し続けている。それを見て、ふいに涙腺が緩んだ。そうだよ。それは神々の火花じゃないよ、人間の火花だよ。泣。

新聞でたまたま目にした「第九のきせき」展(ダイアローグ・ダイバーシティミュージアム。芝の四季劇場の1階)。聴覚障がいの子どもたちが歓喜の歌を自分たちで手話に訳し、手話で唱う姿を撮った写真展である。他の障がいを持ち声で唱う組もあって、全体にインクルーシブな芸術活動となっている。

最初の部屋で、よろこびを手話で表す男の子の写真に引き込まれる。ベートーベンは「このような音ではない」と言ったが、それは言葉も含めてのものだ。ここに彼が求めた音がある。

次に心動かされたのは、2コーラス目の終わり「友を持つよろこびを享受できないものは泣いてこの輪から立ち去れ」だ。私はこの差別的な言辞こそ、この曲最大の難所だとつねづね思っていたが、子どもたちは「去れ」の手話を、他人にではなく自分に向けていた。自分の中の傲慢や怯懦に。これできませんよ、普通。

そして、見終わって出たロビーに流されていた実際の演奏が冒頭の引用である。皮肉なことに、独唱の4人と指揮者が道化にしか見えない。下手とか言うのではない。合唱や管弦楽を率いるように唱い、振るのが、いっしんに手と身体で歌っている子どもたちの前では実に空虚に見えるのだ。だって歌詞や楽譜をなぞっているだけでしょ。よろこびって何だろうって心の底から考えて歌っていない。

フルトヴェングラーよりトスカニーニより、いい第九を聞いた。いつか私も手話でかどうかは分からないが、その輪の一人となって歌いたい。

https://www.youtube.com/watch?v=qxoZJIP8YWA

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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