先日私の関係するFB上で、ある方が「本郷の社会学と駒場の相関社会科学はちがう」と書かれたところ、別の方が「そんなことは外からは分からない、東大中心主義の考え方だ」と批判された。そのことにずっと引っかかっている。
私を含め東大出の多くが東大中心主義に無意識に染まって、世に害悪を撒き散らしていることは改めて言うまでもない。しかし研究と教育の空間としての本郷と駒場のちがいは、近代日本の学問史全体にとって些細な問題ではない。学史を研究する際これを見逃してはならないと思う。
今たまたま玉野井芳郎(経済学者と言っていいかどうか・・・)に関する論文を読んでいるのだが、玉野井が宇野弘蔵に学んだ母校東北大学から駒場に招かれたのは1951年、つまり一高が駒場になったときである。木村健康と矢内原忠雄が駒場の経済学を本郷のそれではない何かにしようとした、その第一の担い手として招かれたのにちがいない。そこから「中沢問題」で事実上崩壊するまでの間、駒場の経済学は本郷とは異なる展開を見せたと思う。もっともそれが矢内原と木村の希望通りであったかどうかは分からないが。
そこがやがて本郷に進学し、官僚や企業人などの支配層になっていく人びとの通過点であったこと、(事実上)彼らが最初に(で最後かも・・・苦笑)学問なるものに対面する場所であったことも、ブルデュー的な意味で正確に評価、批判しなければならない点であると思う。それはゼミ選びですら就活でしかない本郷とはやはりちがうのである。
故見田宗介先生の社会学が、文系より理系の学生に人気があったのも、駒場ならではの現象だっただろう。
私自身は駒場寮に棲息したにもかかわらずその雰囲気に馴染めず、駒場の文化人類学科に進みたかったのに点数が足りなくて叶わないことが分かった後はひたすら本郷への脱出を心待ちにしていた。でも、あの空間が何だったのか考えることは、老人の懐古趣味を超えた意味があると思っている。