いい話には乗れません:映画『ゆめパのじかん』を見る

とてもいい話で、出てくる子ども大人もみな真実だから、途中で出るわけにも行かず、最後まで見たら「文科省選定、厚労省推薦」とあって腑に落ちた。要するに真実の裏側は虚偽である。重ねて言う。出てくる子どもと大人は真実である。それを疑ってはいない。

帰りの電車で10年間、毎年「子の監護を欠く」と自著する申請書を書かされた屈辱が蘇ってきた。その申請のおかげで、子どもたちは毎日竹馬やコマ回しをやらされるのである(教育じゃなくて保育だから)。学童保育、バカバカしいにもほどがある。

その上、ベテランの指導員は皆昔代々木一色だった大学出身で、やることなすこと民主集中制、ついていけない新米は次々とやめていく。ついていけたら、おめでとう!あなたも代々木です。

そんな虚偽に10年付き合って、最後は区の会長までやってしまった。うつ病になって最後は惨憺たる幕引き。下の子の卒所旅行に付き合ってやれなかった。

一応専門的に見直すと、映画の舞台「ゆめパ」が設立されたのは2003年、革新市政を払拭すべく天下った元総務官僚阿部孝夫市政の1期目である。阿部市長、実は総務省の後一時期うちの職場にいたので私はちょっと面識がある。彼の計算高い頭がこの革新色濃い施設をどう受け入れたか、当然計算があったにちがいない。当然運営側にも。

一方こうしたプレーパークとか子どもの居場所といった運動は1970年代後半くらいからのながい蓄積があって(私は90年代に中野区の公民館を調査したとき、不登校の子の居場所になっているので驚いた)、2003年設立というのは決して早くない。でもそれからでももう20年なのである。この国の教育と保育はいったいどうなっているのか。知らん顔して推薦する文科と厚労の厚顔無恥には呆れる他はない。

しかし何よりこの映画の最大の欠陥は、最初から最後までお父さんという存在がまったく出てこないことである。いやそれが事実だから、と製作者はいうだろう。そこが問題なんだよ。お父さんが不在で男の子が暴れるから、お兄さんが付いて自由に遊ばせて社会ルールを教えましょう、というのがプレイパークのはじまりの論理だから。市民の側のその構造がちっとも変わっていないか、変わっていない市民だけをこの施設が相手にしているのか。

近頃流行の「他者の合理性の理解社会学」では、この施設の虚偽は見抜けない。やはり構造主義的な語りと、公共的な怒りが必要だ。

http://yumepa-no-jikan.com/#modal

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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