オペラは「前世紀の遺物」:『ペレアスとメリザンド』を見る

来週からフランス語学校通い(オンラインだけど)が始まるので、景気づけにフランス語のオペラを見に行った。オペラなんて実に30年ぶり。案の定まったく聞き取れませんでした(爆)。

大枚叩いたつもりが新国立劇場の4階のどん詰まり、オーケストラピットはまったく見えません。上野の文化会館の5階の方がまだよかったような・・・音響も。

このオペラはじめて聞くので楽しみだったが、音楽は、交響詩『海』を聞けば十分かな、という程度。大野和士が指揮する東京フィルは力演だった分音が大きすぎて、この作品がワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』あるいは『ワルキューレ』の猿マネでしかないことを暴露してしまっていた。小さく絞ればもっと別の響き(澄んだ不協和音)が聞こえてきたと思うのだが。

しかし、オペラってもう完全に「前世紀の遺物」ではないか。最近今日のような中世神話ものでも現代的な衣装でやるが、そうなると、プリマをたびたび下着姿にしたり、プリマと間男(夫の弟)の逢い引きをプリマの夫が自分の息子(プリマの義理の息子)に無理矢理覗き見させたり、夫がプリマの長い髪を摑んで引きずり回したり、プリマと間男のセックス中に夫が間男を刺殺したり・・・、ポリティカルにアウト!なシーンばかりなのである。こんなもんを芸術と有り難がっていては絶対にいけない。近頃演奏会形式での上演が多いのも、舞台を組むカネがないだけでなく、舞台に上げられないような下品な物語が多すぎるからではないか。

ただし100年前の初演当時だって、こうした物語が公の道徳に沿っていたとは思えない。つまりオペラは本質的にブルジョワの公認ポルノなのであって、その本質は今もヨーロッパのオペラハウスで毎夜続いているのである。幸い、今日の観客はポルノよりあの世の近いバアさんジイさんばかりで、青少年保護としてはひと安心だった。きっとヨーロッパでも同様だろう。それにしても2000人近いバアさんジイさんがポルノを凝視している国立の空間て、おかしくないか。

フランス語という点で1つ学んだのは、真実とか許しとか憐れみといった教会用語がセリフのなかで(音楽的にも)とくに強調されている点である。私の知る限りワーグナーやヴェルディにはそうしたことはほとんどない。革命を経てもやはりフランスはカトリックの国ということなのだろう。毎週ミサで聞く言葉(神)が血となり肉となっているのである。

例によって次回公演のチラシをたくさんくれるのだけれど、たぶんもう二度と行かんな、オペラには。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 東京漂流, 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

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