生きる:ドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』を見て

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黒澤明監督の代表作『生きる』(1952,東宝)のよく知られたシーン、生涯の仕事を見極めた主人公がそれを阻止するヤクザの親分と対峙するシーン。死を覚悟した主人公の気迫を感じた親分が黙って立ち去るのだが、親分役の宮口精二の方は後に本人も語ったように入魂の演技で、修羅場をくぐってきた凄惨な人物を感じさせる一方、主人公役の志村喬の方はうすら笑いを浮かべるばかりで死の覚悟が伝わってこない。志村が凡優なのではなく、明らかに監督に演出の術がなかったのだ。だから黒澤は、志村ががんばりすぎて今ひとつの出来だったなどと責任転嫁しているのだ。すぐ他人のせいにするのは野口晴哉のいう左右体癖の悪いところである。野口に従えば、そもそも生への執着が強い黒澤のような左右体癖の人間には死の覚悟など想像さえできないのである。

長年貢献したアフガニスタンで凶弾に斃れた中村哲医師の記録映画『荒野に希望の灯をともす』を見終わって、そんなことを思い出した。この映画の初版にあたる2016年のテレビ番組(『武器ではなく、命の水を』2016,NHKETV)を私は見ている。その時に感じた恐怖を今日再び感じたからだ。一心にパワーショベルを操る中村さんの目は、私にはものすごく怖かった。それは明らかに死を覚悟した人の目だったから。もちろん2016年の時点では3年後の悲劇は未知である。しかしきっとそうなるだろう、かつその運命を彼は懐にしっかり抱いているように私には見えた。命がけとか捨て身とかいった粗野なことではない。運命とともに今を生きる。それが死を覚悟するということではないか。でも、そんなこと、私にはとてもできない。

『生きる』のラストシーン、黒澤映画の常道で、主人公を理解できないけれど主人公に憧れる若者役の日守新一は、主人公が作った児童公園の上に懸かる陸橋から、さらに上に広がる夕焼け空を眺める。極彩色の(白黒だけど)空に、黒澤も、黒澤と同じ左右体癖の私もやっと死の覚悟というものを微かに感じるのである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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