一句も解けずフランス語:保苅瑞穂先生の遺著

アテネフランセの初級フランス語を5時間×3日間でやるという夏期講座の1日目が終わって、けっこうな分量の宿題を放置して、半ば放心しつつ手に入ったばかりの本を読み始める。

予想してはいたが、若い頃できなかったものが年を取ってできるわけないので、初回ですでに挫折しつつある。二度目はしみじみと、ああ、やっぱりできないな、と。それにあのむやみに形式的で訓練的な教育文化(監視と処罰・・・爆)は私のもっともに苦手とするところなのだ。

手に取ったのは一度目の挫折、大学1年生のフランス語教師だった保苅瑞穂先生の遺著である。頁を繰ると、先生の淡々とした口跡が少しずつ思い出されてくる。当時の私は、目の前の黒髪豊かな若々しい男が白髪ハゲの父と同い年だと知って驚いた。それよりも、先生に漂う静けさは私の父にも私の家にもないものだった。これが大学というものか。大学教員を夢見ていた私は、未知の言語に習熟しつつ、この静けさを自分のものにするという、その道の遠さに途方に暮れた。

信じられないことだが、先生は若い頃の留学の後退官までの40年間一度もパリを訪れなかったという。そんなことがあり得るのだろうか。私の記憶の中の先生は、昨日パリから戻ってきました、みたいな感じの人だったのである。そもそもフランスに1回しか行かないフランス語教師が可能なのだろうか。今私の頭の中には、毎年のようにフランスを訪れていた宮島喬先生(保苅先生より3つ下)の姿が浮かんでいる。

さらに頁を繰ると、その口跡から滲み出る悲しみのようなものに、つい涙腺が緩んでしまう。不幸や不運を嘆いているのではない。文章そのものが悲しみを含んでいるのだ。そこには若い頃はまったく気づかなかった。当時は先生もそうではなかったのかもしれない。何しろ、私が所属するワンゲル部のスキー合宿の形式的な許可をお願いしたら、「お、志賀高原か。志賀高原の熊ノ湯はうちの実家だよ」と楽しそうにサインしてくださったのである。遺著には東京神田生まれと書いてあるので、私の記憶と合わないが。

あと2日、先生の遺著と一緒に、先生の血肉となっていたフランス的なものを探して、もう少しがんばってみるか。

https://www.bungei.shueisha.co.jp/shinkan/letestamentdepaulvalery/

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 読書ノート パーマリンク

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