「何よりもだめな」という言い方を最初に知ったのは菅孝行の本の題名だったが、おおもとはH.M.エンツェンスベルガーで、それも彼の祖国ドイツの国歌「世界に冠たるドイツ」のもじりだということを最近知った。原典に沿うなら『何よりもだめな日本』ではなく、『私たちの日本はもうお終いだ』(/君が代は千代に八千代に)としなければならない。さて最近刊行された、ある家族社会学の本を読み始めたが、数ページで投げ出してしまった。まあでも、と思い直して一応最後まで目を通したが、読み終わってやはり投げ出してしまった。ときどき出合う「何よりもだめな社会学」の典型だった。どこが「何よりもだめな」のかというと、著者の、社会学以前の価値観や偏見がまったく相対化されていないところだ。この点は社会学がフロイト派の精神分析から学ぶべきだったところで、自己分析なしに社会分析はできないはずだ。その結果、対象たる社会を公平に観察できず、自分の価値観や偏見を補強する道具にしてしまっている。文献引用も恣意的で、嘘を隠しているところでは引用がなく、大声で嘘をつくところではいっぱい引いてある(まったく文献引用とは嘘をつかないものだ)。要するに偏見がひと塊になって投げ出されているわけだ。著者は自分をリベラリストと称している。自分を相対化できないのにリベラリストもあったものではないが、そう言って偏見を押しつけることを誤魔化しているのである。そんな醜い塊は、ポイと投げ返してやりたい。J.J.ルソーの『人間不平等起源論』は、T.ホッブズの『リヴァイアサン』を批判するという筋書きで書かれた本だが、そのなかでルソーは、ホッブズの「孤独で、貧しく、きたならしく、残酷で、短い」という人間観は、イギリス人がイギリスしか見ていないことから生じる偏見だと言っている。ホッブズが人間を偏見なく検討しようと努めていたことを知ってもなお、ルソーの批判は創造的に破壊的で、まさにそこから社会学が始まるのだと思う。
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私が、私とほぼ同世代のこの著者に言いたいことはただ1点、「中村吉治の、たとえば『日本の村落共同体』を読んでみたらどうですか」だ。
ただし、一般論としては、家族社会学は領域社会学の中でももっとも価値自由な研究が難しい分野だと思う。なぜなら第一に、多くの社会が家族主義のイデオロギーを持ち、かつ社会保障など政治制度と結びついているので、面と向かって異を唱えることが難しいからである。第二に、私たちは良くも悪くも家族の中に生まれ、育てられるので、フロイト的な意味で自分の家族観から自由になることが難しいからである。第三に、私はこれが一番気になるのだが、大人は、自分の家族に(「ない」場合も含めて)アイデンティティ、とくにアドラー的な意味での優越性を求めるので、やはり自分の家族観から自由になることが難しいからである。三番目の点では、男の家族社会学者にとって、価値自由な研究はほぼ絶望的だと思う。社会制度に寄生せず、父母を批判でき、妻や子どもを自分の生きがいの奴隷にしない男がいれば、ぜひお目にかかりたいものだ。