我が爲に佛を作る勿れ:最澄『顕戒論』に沈潜する

珍しく飽きが遅くて(秋は早いのに)、あいかわらず最澄と空海を読んでいる。今日は最澄の『顕戒論』、これがむやみに面白くて授業に行くのを忘れるほど。南都諸宗からの論難への反駁書で、博覧強記はもちろん論理の明快さは現代の分析哲学書と言っても通じるのではないかと思われるほどだ。

その中ではないのだが、印象深い一句に出合った。「爲我勿作佛(我が爲に佛を作る勿れ)」、伝えられる最澄の遺言の1つ『傳述一心戒文』にある。天台宗の主要なページにも引かれているので、『山家学生式』の「照于一隅」(一隅を照らす、ただし実物の于の書体はどうみても千なので、後代の誤解)と同様、宗門ではよく知られた言葉なのだろう。

最初見た時、私は「お前たちは自分の中に仏をデッチ上げてはいけない」という意味だと思った。なぜなら空海の仏教はまさに「自分の中に仏を見出す」方法だから、それへの強烈な対抗意識だと思ったのである。事実最澄は、教えを請うた年下の空海から直接手紙で「仏に会いたければ自分を掘り下げろ」と痛罵されたのだった。しかしこれは素人の誤解で、正しくは「死んだ私の供養のために仏を作ったりするな」と素直に読むべきなのだそうだ。

しかし『顕戒論』を読み進めるにつれ、私の誤解もそれなりに当たっているような気がしてきた。最澄は、仏教経典を「公」の(公共的な)言説にしたい、「私」の(秘密の)言説にならないようにしたいのだ。経典が正しく世界に流布されればそこはそのまま常寂光土となるはずだからだ。時代ゆえに世界は当時の国家に限定されているが、理論的には国家だろうが何だろうが、経典が正しく流布されていればそれでOKなのである。そんな最澄にとっては、その場限りの利己的な加持祈祷なんてアホかいな、なはずだし、もういない自分を慕って仏像を作ったりするのは「私」の最たるもので、ナンセンスの極みなのだ。

最澄の本来の問いは、現行の小乗(「私」)を越えていく未来の大乗(「公」)とは何か、にあったと思う。その意味で、社会学者である私が『顕戒論』に沈潜しても悪くないのではないか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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