やりたい研究は「ない」:隠遁ではない生を生きる

若い同僚から「中筋さんのご研究の問題関心は何ですか」というようなことを聞かれた。嫌味のない素直な問いだったので今している仕事を答えたのだが、本当は、すぐに頭に浮かんだのは「ない」だった。

同僚の問いには「今の」以上に「根本的な」の意味が含まれていたように感じた。もっともである。校務や教育では人並みには働いているが、論文も著書も少ないこの初老の同僚がいったい研究者としてどれほどの価値があるのか、私が彼の立場なら疑問に思うだろう。

で、「ない」である。やる気が「ない」とか研究する能力が「ない」というわけではない。ほとんど「ない」のではあるが。日々を通していつも何かを考えているし、次に読む本や次に行く旅程を記したメモは机の上に散らばっている。ただ、それらを研究というかたちにまとめる気が「ない」。今考えていることを研究にまとめるプロセスははっきりと認識でき、そかしそれをやることに意欲を感じ「ない」。

最初からそうだったといえばそうだ。自分が考えたいことを研究というかたちで粉飾すれば飯が食えるということでこの職業を選び、色々あったけれども(最近の国立大学のように)世間に認められる仕事(のフリ)をつねにしていないとクビになるとか給料が下がるというのではない、ぬるま湯の長湯の職場を手に入れた。それで粉飾する努力をやめて地金が出たというわけだ。若い頃はチヤホヤされたいとか、偉そうにしたいという欲望があったけれども、それがなくなるとますます粉飾の意義は「ない」。

そんな心情を伝統的には隠遁というのかもしれない。ただ、まだ住宅ローンもたくさん残っているので、西行のように家族を蹴倒して高野山に上るわけにはいかない(西行はその後けっこう社会的に活躍(暗躍)しているので、とても隠遁とはいえない)。一時期五木寛之が「林住期」というようなことを言ったり書いたりしていたが、それともちがう。読んだことがないし、たぶん読んでもピンとこないだろうが藤沢周平が好まれるのは、そうした初老の(男の)生へのロマンティシズムなのだろう。しかし私の場合、初老だからそうなのではなくて、もともとそうなのがいよいよそうなっただけなので、それともちがう。

かくして今日も朝起きてこれから仕事をし、本を読んで、夕方にはちょっと変わった音楽を都心に聞きに行き、帰ったらまた仕事をする。それらはけっして研究にはならないだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 読書ノート パーマリンク

やりたい研究は「ない」:隠遁ではない生を生きる への7件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    『隠遁の思想』の著者は大学3年生のとき、真宗学の大先生の親友と一緒に受講して優をもらった方である。読むと35年前のただずまいが蘇ってくる。ぼそぼそと飛躍した論理を語り、黒板いっぱいに板書を続け、黒板が埋まるとゆっくりとそれをすべて消し去る。その動作の閑雅さに感心して、親友と私は「黒板消し男」と言うあだ名を付けていた。

  2. かほう鳥 のコメント:

     確かに。  かほう鳥です、こんにちは。
      研究者ではなくても…現役の。それも有り。ゼーンゼン有り。と思います!
     ご自分でいわれるなら。周囲は変わり続けていくのですよね?思い込みかな…。
      *** 舞台の上 歳の離れた二人。
     「マジ、ナンにハマってます?」_ひと息いれ「ビ・ミョ・ウ。かな…(笑)」
      _(笑)は、演者自身に表現を託す。他はフリー。***
      私が感じた場面スケッチです。学者さんだけのものではないと思います。
     ご自身と看板のギャップ的考察?…失礼ながら ’’この贅沢もん!!’’ご自身一番です!
     …真面目な日本人。スタンダード。   お気楽者 お許しを。  

    • 中筋 直哉 のコメント:

      かほう鳥さん、コメントありがとうございます。

      考えることに倦んでいるのではなく、研究という社会的な活動に嫌気がさしているのです。たぶん再び関心をもつことはないでしょう。尊敬する先輩から「日本社会学会だけはやめるなよ」と言われましたが、まあ時間の問題ですね。

      考えるのは病的なほど好きなので、今日も明日も死ぬまでも、どうでもいいことを考え続けていくと思います。

  3. M. W. のコメント:

    中筋さん。先日は某先生を偲ぶ会で久しぶりにお会いしましたね。中筋さんのブログ、いつも興味深く拝読しています。
    今回のブログですが、“学界”で「研究」としてなされていることのかなりの部分が、中筋さんの言う“粉飾”まがいなのはその通りだとは思います。しかしながら、本来的な意味での〈研究〉とは、何事かを考え解き明かそうとする知的営みなのですから、中筋さんはこのブログにその一端が示されている〈研究〉をしているのではないでしょうか。「研究≑粉飾」と読めるような書きぶりは、研究という言葉が指し示しうるものを矮小化しているようでちょっと残念です。
    さらにいうと、そのことと日本社会学会の会員であり続けることとはあまり関係ないので、日本社会学会をやめても問題ないのではないかと思います。
    私はこのブログを通じて知る中筋さんの〈研究〉にいろいろ教えられ、学んでいます。今後も楽しみにしています。

    • 中筋 直哉 のコメント:

      率直なコメントありがとうございます。確かに真意が伝わりにくい書き方でした。ご指摘を受けて省みますと、私にとって研究とは公共的な課題を公共的な過程を通して意味づけたり、解決策を探ったりする思考の型のことです。似田貝香門や舩橋晴俊といった「公共性の権化」みたいな先輩方の下で長く働いたせいかもしれません。今の私の書き込みは、まだ公共性の残骸のような部分もありますが、それらもだんだん剥がれ落ちて、極私的な妄想、空想だけになってきているように思います。それに歯止めがかからないというか、歯止めをかける気がなくなっているということを言いたかったのです。

      研究は必要で、他の方が進めて行かれることに何の異論も恨みもありません。たとえそれらの一部が若い頃の私のそれのように粉飾であっても、マンドヴィルの『ブンブン唸る蜂の寓話』のように、結果が集合的に善であれば何の問題もないと思います。

      私の粉飾の道具であった日本社会学会(たまたまこの土日が大会ですが、先の書き込みは何の関係もなく書きました)が発展していくことにも何の異論も恨みもありません。むしろ「趣味は日本社会学会」と言われた某先生のように、そうした活動に少しでも参加できていればよかったなと思うこともあります。が、だんだんそう思わなくなりました。組織として以上に、思考としてそこに関わる気が失せてしまったのです。

      このブログのように、極私的な妄想、空想であっても、私にとって考えて書くことが必要なのは、野口晴哉のいう「生ききった者にだけ安らかな死がある」の「生ききる」ことだからだと思っています。それを読んでくださる方がいらっしゃるのは、とてもありがたい、うれしいことです。ただその交流は、公共圏上の交通でも親密圏内の交歓でもない何か、なのではないかと思います。

      そしてそれこそは私がこの世界に心から求めていたものなのです。

      • M. W. のコメント:

        ご返信ありがとうございました。
        先のコメントに補足すると、中筋さんが「研究」に対して「ない」という言葉で表現したいと思われていること、あるいは「ない」という言葉で対峙したいと思われていることは、私にも理解でき、また共感できるように思います。
        その一方で、似田貝先生や舩橋先生がおっしゃっていたという「公共的な課題」や「公共的な過程」における「公共的」は、「研究」の場合と同じく、「公共的」あるいは英語の”public”という語が意味しうるものより狭いと思います。
        私的な領域の外で、互いに他者である人たちが姿を現わし関係する領域と、それを通じて現れる世界が、広い意味での〈公共的〉な領域なのだと私は考えています。たとえば芸術作品も、そうした公共的な領域に向けて作られ、発表されますが、すぐれた芸術作品は、その主題がきわめて私的な事柄をめぐるものである場合にも、人間や世界について他者と共有しうる問いと思考の場を、まさに〈公共的〉なものとして開くのではないでしょうか。さらに言うと、そうしたものの〈公共性〉を見ることのできない社会学者は、社会も人間も本当には見えていないのだと思います。(もちろん、中筋さんはそんなこと百も承知でしょうけれど。)
        というわけで私は、中筋さんのこのブログも十分に〈公共的〉で(も)あると思うのです。

        • 中筋 直哉 のコメント:

          M.W.さん、深切なご返信ありがとうございます。公共性の範囲の取り方、まさに社会学的課題ですね。私が定義した狭い方はほぼ政治とか市場と重なっていて、権力と支配、競争と独占によって成り立つ、ウェーバー的な領域だと思います。一方の広い方はハーバーマスのいう公論やパーソナルネットワークによって成り立つ、より現代的な領域でしょう。長年お付き合いくださっているM.W.さんはご存じの通り、私はそのさらに外側にもっと希薄な、バン・アレン帯のような社会的領域、「群衆の居場所」を夢想していて、そこに還りたい、そこに生きたいと、観念的にではなく実践的に思うようになったのだと思います。しかしそれは「隠遁」とはちがうし「市井の人」かというとそうでもない。その辺りを当分巡り、探りながら書いていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください