仏教と仏教でないもの3:超人と庶民をむすぶことば

今回の旅でうかつにも予想(予習)していなかったことがある。熊野本宮大社の門前でたまたま目に留まって思い出した。時宗の宗祖一遍智真はここ熊野で自らの信仰のかたちを定めたのだった。

国宝『一遍聖絵』(岩波文庫)では、高野山から遊行してきた出家したての一遍が「南無阿弥陀仏」と記した札を同じ参拝者である僧体の人に渡そうとしたら、念仏を信じないので受け取れないと突き返された。押し問答の上渡したが迷いが生じる。神前で祈ると山伏体の熊野権現が顕れ、「お前が信心させ、救うのではないぞ。阿弥陀如来が救うと約しているのだ。だから気にせず誰にでも配るがいい」と諭す。気づくと百人ばかりの童子(王子)が集まり、「お札ちょうだい、南無阿弥陀仏」と言いながら受け取って散っていった。

案内板を見ると、一遍を記念する神事が今も続けられているようだ。中世の都市的な場での(人びとへの)布教とその表現としての踊り念仏(芸能)という、網野善彦的な関心に限っていては、ことの本質を捉えきれない。『一遍聖絵』が描いた場面の多くは全国の神社仏閣あるいは修験の場だった。そもそも不勉強な私は「いっぺん・ひじりえ」と読んできたのだが、「いっぺんひじり・え」が正しいのだ。つまり役行者以来の修験者、高野聖の系譜の先に一遍の時宗は展開したのである(五来重『高野聖』著作集第2巻)。しかしそれは一遍だけのことだったろうか。法然上人に「折伏」された俊乗房重源が元は真言の修験者であったように、念仏の民衆化という「社会運動」は、鎌倉時代の新現象ではなく、最澄・空海以来の仏教と固有信仰の混交の果実だったのである。念仏は真言以上に有効有用な、超人たる修験者と多数の庶民(とりわけ都市的な場とはじめとする差別された人びと)を結ぶ「ポピュリズム」の回路であり、またその回路がある以上エリートの思想である仏教は民衆の固有信仰を排撃する必要がない。さらに固有信仰の核心は、誰もが気になる「あの世」のイメージ化と、その祭主としての天皇なのである。文観上人の描いた後醍醐天皇の神像(国重文)がなぜ藤沢市の時宗本山清浄光寺(遊行寺)に伝わっているのか、やっと分かったような気がした。

しかしその回路は、先便の青岸渡寺について述べたように、今はまったく無効化しており、しかしそれは仏教そのものの無効化ではないのではないか、というのが旅を終えての感想である。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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