男にとっての女ではなく:唐十郎『ベンガルの虎』を観る

いい意味での成りゆきの結果、流山児★事務所の舞台を続けて観ることになった。宮本研作『夢・桃中軒牛右衛門の』『美しきものの伝説』に次いで、昨夜は唐十郎作『ベンガルの虎』を観た。開演前の舞台に白熱灯の点いた電信柱が一本立っていて「別役か?」といぶかったが、そうした演出ではなかった。

はじめて観るこの芝居の元ネタは竹山道雄『ビルマの竪琴』である。そこに山崎朋子『サンダカン八番娼館』と唐自身の『下谷万年町物語』を重ねていく(すみません、唐ファンではないので自分の乏しい知識で類推しているだけです)。要するに明るい昭和の只中にその昏い根底を探るのが主題だ。ただそれはもはや明治や江戸と同じ時代劇である。「いや、今につながっている」というのは年配者の思い込みで、若い人には通じない。

個人的に『ビルマの竪琴』にはトラウマがある。小学校に上がったときに下町から山の手に越し、その動揺から不眠症になった。マンションの白い天井が恐ろしかった(生家の板天井の木目も怖かったが)。母は読み聞かせで寝かせようとし、最初は『暮しの手帖』の童話集などを読んでいたが、なかなか治らないので(たぶん英才教育的な意図も加えて)、小学館の児童向け文学集を選んだ。それは『姿三四郎』『ビルマの竪琴』『太平洋ひとりぼっち』と、男の子向けのナショナリズムの物語ばかりを載せていた。感情が激しやすい母は(身内に戦死者はいないが)『ビルマの竪琴』を泣きながら読み続け、私は困り果てながら付き合った。おかげでいくつかのシーンを、後に見た市川崑の映画とは別に、今でもありありとイメージすることができる。

初演の1973年はまさに私が母の『ビルマの竪琴』を聞いていた年で、著者の竹山道雄はまだ生きていた。『サンダカン八番娼館』の刊行が1972年、映画化が1974年である。唐の芝居は、まだ生きている歴史への対決と超克の意味があったのだろう。しかし半世紀後の今この芝居を演じ、観る意味はより微妙になっているのではないだろうか。とくに主人公の「水島上等兵の妻=らしゃめんの娘」が発することばと身体の躍動性はさすが唐と唸らせる一方、現代社会におけるジェンダー平等の深化や性暴力、性差別への批判を踏まえてどう脱構築できるか、いやもっとひらたく言えば、男にとっての女ではなく女である女(逆も同じ、「そんなものはない」という解も含めて)をどう劇化できるのか。「古典の生き生きとした再演」ではすまない課題が残されたように思われた。

もちろん舞台そのものは主演女優と狂言回し訳の男優の熱演もあって、舞台の楽しさを十二分に堪能できた。できればこれからもこうした夜を楽しみたい。

https://www.ryuzanji.com/2022/tora.html

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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