中学高校の同級生N君を悼む

先に同世代の同業者道場親信氏を悼む記事を記したが、実は少し前に大学の同級生の訃報も聞いていた。彼女は卒業後雑誌『旅』の編集部に入り、外国人写真家の紀行エッセーの翻訳の仕事を回してくれた。国内旅行中心の『旅』としては、バブル期らしいとんがった企画だったと思う。若い私たちは、互いに意地を張り合って何度か喧嘩したが、何とか連載終了までこぎつけた。その後彼女は大学の先輩と結婚し、子どもにも恵まれ、幸せな家庭を築いていたはずだった。昨年共通の友人の結婚式で会ったとき、私の方が病気のために彼女の病気にほとんど気づかなかった。ただ、いつも明るい彼女に、ぼんやりした空洞のようなものを感じたのは確かである。だが、もうひと言も彼女と話すことはできない。

今度は中学高校の同級生のN君の訃報だ。N君と私はまったく親しくなかったが、1つの関係が互いを意識し合わせていたと思う。その関係とは、私の母校は中学の入学試験の成績で、1番の者が1年1組の級長に、2番の者が1年2組の級長になる仕組みで。私の学年はN君が1組の級長、私が2組の級長だったのである。もっとも500点満点で444点のN君と私の間は10点以上開いていて、私の後はダンゴだったから、要はN君だけが飛び抜けていたのだ。案の定、入学後の私は早々に落ちこぼれ(大澤真幸いわく「進学校の落ちこぼれの典型だ、君は」)、文学や哲学に逃避してしまったが、N君は黙々と勉強を続け、いつも1番だった。たぶん模試も共通1次試験も1番だったろう。当然のように東大理Ⅲに現役合格。私の方は、別の同級生から「お前が合格するなんて間違っている」といわれながら、何とか文Ⅲに合格した。その頃からか私はちょっと大それた野心を抱くようになった。「N君より先に東大の助手になる」。教授じゃないところがみみっちいが、まあ助手になれば教授にもなれるだろうくらいのいい加減さだった。そしてそれは実現したが、10ヶ月で私は東大を出、二度と戻れなかった。一方、N君は当然第一内科の教授になっているだろうと思っていたが、10年くらい前に会ったときには、そうではなかった。そして今ウェブで調べると、最後のキャリアは民間病院の勤務医だったようだ。

会ったとき、めずらしく彼から私に話しかけてきて、遠からずゆっくり会って話そうと言った。私はN君と話すことなどあるだろうかと思いながらも、うれしかった。N君は家庭に複雑な事情があり、また大学でも必ずしも恵まれなかったと聞く。彼が私と親しくしないのは、私が彼の眼中になかったからだと思い込んでいたが、そうではなかったかもしれない。逆に彼の傍にいるだけの人としての力が私になかったからかもしれない。

それにしても、だんだん腹が立ってくる。N君のような才能を、この社会はどうして大きく咲かせようとしないのだろうか。もちろん民間病院の一医師がつまらない仕事だとも、N君がそれに不満だったとも思わないが、でもN君の孤独な努力にもっと社会は報いるべきだったのではないか。N君の孤独な努力の軌跡を、私はゆっくり聞いてみたい。だが、その機会はもうない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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