奥田道大先生に叱られた思い出

先日教えてもらいたいことがあって、いつも親切にしてくださる、明星大学の渡戸一郎先生にメールを書いた。渡戸先生とのやりとりの時、急に奥田道大先生のことが思い出され、胸が詰まった。奥田先生はたくさんの都市社会学者に影響を与えた大先生であり、私など本当に末席に過ぎない。しかし、いつも先生は真剣にご教示くださり、真剣に叱ってくださった。

渡戸先生のお話は、先生が大学院生の時、当時町田市ではじまった「23万人の個展」まつりに、奥田先生に連れて行かれた思い出話だった。私は会場を歩き回る壮年の奥田先生の姿が目に見えるように思われ、胸が詰まったのだった。

始めて奥田先生が指導してくださったのは、たしか大学院生の私が日比谷焼打事件の研究を学会発表したときのことだったと思う。その後のシンポジウムか何かの会場で、直接横に座られ、あの甘ったるい、親しげなお声で、「中筋さんの研究対象は、本の中ではなく町の中にあるんですよ。東京の下町を歩いてごらんなさい。当時の生の記憶がいくらでも聞けますよ」と諭された。先生の名著『大都市の再生』(1985)を愛読していた私は感銘を受ける一方、それは構造主義的に「離見の見」で行きたい自分の野心に反するので従わなかった。でも、そのときの印象が「都市の経験」(もともとはアメリカの都市社会学者C.フィッシャーの言葉)という言葉としていつまでも心に残り、その後書いた「粉飾された都市」という小文で解答を出そうと試みた。この文章についてはいつか再考したい。

『社会学評論』に「分野別研究動向(都市)」というレビュー論文を書いたときは(2005,56巻1号 Jstageでpdfで読めます)、本当に怒られた。それはそうだ。高弟の広田康生先生のお仕事を論難することを通して(はっきり言っておくが、広田先生の一連のお仕事は日本都市社会学の最良の成果の1つだ)、奥田都市社会学を否定したからだ。奥田先生は「あんな書き方をしたら、広田君がかわいそうだ」と言われた。たぶん「やるなら直接俺にやれ」ということだったろう。私は「広田先生なら、分かってくださいます」と反論にならない反論をしたように覚えている。それが先生とお話しした最後だった。

私が先生の議論に感じた違和感は、あれほど都市への嗅覚が鋭く、行動半径も広い先生が、結論はコミュニティという、極論すれば「都市の否定」みたいな紋切り型(イデオロギー)に陥られることだった。ちょうど私の師匠が何でも「国家独占資本主義」と結論づけるのと同じで、論点先取というか予定調和というか、それなら研究しなくても言えるでしょうと言いたくなる。未解明の課題はコミュニティではなく、都市なのだ。

北川隆吉先生(また出た!)は、「奥田君は負けん気は強いのに、意気地がない。だから東大生に弱いんだ」とつねづね言われていた。聞いた当座はよく分からなかったし、それが研究と何の関係があるのかいぶかしく思ったが、今省みれば、そうだったかもしれないと思う。私の欠陥にもう一歩踏み込んではくださらなかったことを、残念に思う。

しかし今、私は奥田先生のご教示を、もう一度心に蘇らせようと思い始めている。先日「たぬき」に教えを乞うたように、未解明の課題に取り組むために、そろそろとではあるが、「書を捨てて、町に出よう」と思う。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 私の仕事 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください