くそう、オモロイやないか、チョムスキー:『言語の科学』を読む

言語学者というか、左翼運動家?N.チョムスキーの対談集『言語の科学』の翻訳が出たので、勇んで読んでみた。「私の社会学信条(クレド)」に記したように、私はヒューム以来の「人間本性(human nature)」という言葉が嫌いで、その総本山が生物学のE.O.ウィルソン、心理学のB.スキナー、言語学のN.チョムスキーのアメリカ人「3悪人」だと睨んでいる(だからその3分野も嫌い)。だから読むとき、十字軍的な気負いがある。ウィルソンは前に” The Social Conquest of the earth”の翻訳『人類はどこから来て、どこへ行くのか』を読んで、その筋立てのユニークさ(サルとヒトの間に、彼の本来の専門であるアリの「社会」を挿入する)にちょっと惹かれたが、まあでもそれは生物としてのヒトの話だし、ヒトと人間は層がちがうし、と割り切れた。チョムスキーはどうだろう。

チョムスキーのいわゆる「生成文法」は、いくつか解説書を読んでちょっとは分かった気でいた。派手に概念体系を積み上げているけれど、要は言語をつまらなくする上に、ひどく金の臭いがする。効率的な教育法に応用できますよ、人工知能に使えますよ、といった工学的誘惑に満ちていて、そうした「金融工学」から逆に演繹されているような気がするのだ。地震予知のように、大勢でつるんで科研費とって、世を迷わせる成果しか出せない「エセ科学」。だから、左翼運動家の顔とどうもつながらなかった。まあ、左翼運動家の方もどうかと思うが・・・。

ところが読んでみると、本家の方は面白い。まず驚いたのは、彼にとって「人間本性」は研究の前提ではなく、遠い目標であることだ。だから研究はごく基礎的な段階に留まっていて、金の入る余地がない。ただただ好奇心の趣くままに、一歩前進二歩後退を繰り返している。その知性は懐疑的ではないが公平で、あまり自己愛に囚われていない。腕のいい靴職人のような感じだ。いい靴を作りたい一心で毎日槌をふるっている。しかし、靴が唯一の履き物であることは疑わない。下駄をみても、野蛮人の迷信とは思わないが靴の一種だと思って調べてしまう。私に言わせれば、下駄は靴ではないところが面白いのだし、そもそも私たちは裸足で歩くことができる。ただし靴や下駄がある以上、裸足は「人間本性」ではない。もし「人間本性」と呼べるものがあるとすれば、それは裸足に靴や下駄をかぶせる、その工夫の多様性だ。ただし靴は靴擦れを作るし、髙下駄を履いて歩くのは訓練がいる。そのことを明言したのは、C.レヴィ=ストロースである。

さらに面白かったのは、彼がM.フーコーを目の敵にしているところだ。私は両者の対談を読んでいないので断言はできないが、この勝負はたぶんチョムスキーの勝ちと思う。彼がフーコーに代表させる「思想史」という思考様式は、たしかに一見私たちの思考を自由にするように見えるが(フーコーはそのつもりだったろう)、実はあらゆる思考を恣意性のもとに投げ出し、かえって容易に偏見や抑圧を引き込んでしまうというのだ。明言はしていないが、彼に言わせれば、「思想史」を基盤にするような人文社会系の学問は皆、ファシズムのお先棒担ぎということになるだろう。一方で、「思想史」を基盤にしない人文社会系の学問は(チョムスキーは「社会科学」と呼んでいるが、経済学のことだろう)、何の力もない屁のようなもの(あるいはただの金勘定)ということになるだろう。チョムスキーの「人間本性」という問題提起は、こうした人文社会系の学問に対するアンチテーゼなのであって、その橋頭堡が言語学なのだ。これは深刻な批判だ。私は、私の周りのフーコー好きの顔を思い出す。彼らは決してフーコーのようにマイノリティではない。むしろ学界の権威者たちだ。彼らがなぜフーコーが好きなのか、すっきりわかった気がした。

ただし、私には反論がある。1つはチョムスキーの矛先はフーコーに向けられるべきではなく、フーコーの、フロイトの、そしてM.ウェーバーの水源であるニーチェに向けられるべきだということ。この本を読むまで気づかなかったが、私が自分の「信条」をニーチェに頼ったのは偶然ではなかったのだ。『善悪の彼岸』を読み直さなければならない。

もう1点は、思考と行動の自由と平等を確保するためには、「人間本性」のような見えない不動点が必要だというチョムスキーの主張は、「思想史」的には、全くプロテスタント神学と異ならないということ。つまり彼は「神の下の平等」を言っているに過ぎないのだ。そのことからも自由にならないと(チョムスキーは自由を自認しているようだが)、その追随者たちのように、権力ではなく金に支配されることになるだろうし(まさにウェーバー・テーゼ)、ひとたび金が裏切ったときには、性急に捏造された「人間本性」が自由を求める私たちに「最終的解決」を与えることになるだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の仕事, 読書ノート パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください