研究者の七つの大罪:嫉妬

岸上伸啓編『贈与論再考』(臨川書店)所収の中川理「『反―市場』としての贈与」を読んで、久しぶりにある感情が湧き起こってきた。それは「嫉妬」である。若い頃は「焦り」はたくさんあったが、研究上嫉妬を感じるようになったのは、40歳を過ぎてから、まだ就職していなかった五十嵐泰正さんの仕事に接したときがはじめてだった。私は最初その感情が何なのか分からなかったが、時間をかけて反省してみると、それはまぎれもなく「嫉妬」だった。

自分と近い問題関心や研究領域を持ち、かつ自分より広く(世界標準で)自由な(学派や領域に囚われない)視野で論じ、さらにその含意が未来に遠く、大きく開かれているように感じられるとき、私は嫉妬を覚える。私だって、若い頃、あれほど不自由でなければこれくらいのことは、いや、これ以上のことができたはずなのだ、いや、やってきたのに認められなかったのだ、と。しかし、こんな感情は外から見れば、実に嫌らしい、格好の悪いものだから、すぐあとから自己嫌悪が襲ってくる。

もっともこうした条件を満たし、若い才能ある研究者なら誰にでも嫉妬するわけではない。たとえば当時職場の同僚だった仁平典宏さんの『「ボランティア」の誕生と終焉』は、元の博士論文はさらに巨大な作品だったというものすごい成果で、勉強になったけれど、嫉妬はちっとも起こらなかった。むしろ嫉妬する相手は少なく、その向こうには本当は自分ではまだ対象化できない、より深い劣等感が隠れているのだろう。

五十嵐さんのときは、悩んだ挙げ句1つの解決策を見出した。それは一緒に仕事をするということだ。もちろん横にいて嫌がらせをして潰すということではなくて、一緒に仕事をすれば、自分にも励みになって少し向上できるかもと思ったのだ。彼の立場に立てば、いい迷惑だったと思う。しかし私は、勤め先に関係する人事に彼の名前を出し、また偶々声がかかった教科書の編集に強引に彼を巻き込んだ。結果は、やはり彼の迷惑になるばかりだった。人事はどれもうまく行かず(負け惜しみだが、うまく行かなくてよかった。その後彼は愛する郷土に近い職場を得、またそこの制度遺産を上手に使って業績を伸ばしている)、編集作業は難航した。7年がかりでできあがった教科書は、ちょっと自慢したいくらいの出来だったが(五十嵐・中筋編『よくわかる都市社会学』ミネルヴァ書房)、それはひとえに彼の貢献によるもので、その上ひどいことに彼自身のオリジナリティはあまり発揮されていない(今講義で使いながら、しみじみ反省している)。ただ1つよかったのは、こうした作業を通して、私の方は嫉妬から解放されることができた。当たり前のことだが彼は彼であって私ではない。私は私であって彼ではない。私は私の道を淡々と行くしかない。彼の次の研究が楽しみだ。

中川氏の論文は、興味深い論点をいくつも含んでいて、また文化人類学者ならではの豊富なフィールドワークに裏付けられていて、著作としてまとまったものを早く読みたいな、と心から思う。注で引用される古典がE.トムソンにはじまり網野善彦で終わるところも、私にはグッとくる。でも、五十嵐さんのときのように、俺もこれくらいのことはできたし、今からでもできるなどとは、もう思わない。嫉妬しているというよりは、嫉妬する自分を久しぶりに再発見したといった方がよかったかもしれない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 読書ノート パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください