研究者の七つの大罪:怠惰あらため無視

引き続き岸上伸啓編『贈与論再考』の読書ノートを。立川陽仁「ポトラッチとは、ポトラッチにおける贈与とは」も興味深い論文である。社会学でも神話化(都市伝説化?)されている「競覇的消費」を実証的に解体し、リアルなポトラッチから新しい方向性を指し示す。ただし著者の指し示すデリダの「歓待論」への接続の可否は、よく分からない。デリダの方は、カントの『永遠平和のために』の話ではなかったか。ちょっと飛躍しすぎでは、と思う。

「競覇的消費」が西欧社会との毛皮交易による接触と交易地における部族混交の過程で生じた病理的現象であることは、私が東大文学部学生だった1987年に聴いた、大貫良夫先生の「文化人類学」でも言及されていたことである(ノートを大切にとってある)。その後柳田国男の『明治大正史世相篇』の、明治の男たちは異郷の同胞たちとの交流に悩んでやたらと煙草を吹かすことになったという記述を読んで、ああ、これもポトラッチなんだなと思った。だから、確認の意味では重要ではあるが、新しさはない。では、正常的現象としてのポトラッチがどのような社会的事実で「あった」かについては、私は立川の議論に完全に同意できなかった。

それは、昔読んだ益子待也「ポトラッチの神話学」(『民族学研究』47(2))の議論が非常に説得的で、その枠組みから出られなかったからだ。益子は正常的ポトラッチを北西海岸原住民の神話のなかで理解することを提唱する。とくに胞族制度(社会)と死者祭祀(文化)のシステマチックな(パーソンズ的な)連動に注目し、胞族間のコミュニケーションと生者と死者のコミュニケーションを同時に達成する技法としてポトラッチにおける「火」の蕩尽を解釈する。実は私の日比谷焼打事件への最初の関心は、益子論文の影響が大きかったのである(「巷に燃える火」『ソシオロゴス』16)。

ところが、立川論文は益子論文に全く言及せず、立川自身の「現代」のポトラッチへの参与観察に基づいて、現在の先住民の社会「意識」を行動経済学的に推定する。つまりポトラッチが今どのような社会的事実で「ある」かを、かつてどうで「あった」かにまで拡張するのである。しかし、それでいいのだろうか。私は柳田国男が女婿堀一郎を諫めたという言葉「昔は今とちがうんだよ」を思い出す。

もっと慎重な立場もあり得るはずだ。本書『贈与論再考』全体に絡めていうと、M.モースの『贈与論』のデータはF.ボアズの「ポトラッチ」とB.マリノフスキの「クラ」の2つで(本当はこのまとめの粗雑さを批判しなければならないし、本書もそうしている)、「クラ」の方は、あの日本テレビ「すばらしい世界旅行」(子どもの頃祖父と見て感動した!)のスタッフが再訪問によって記した、これもすばらしい『KULAクラ』(市岡康子、コモンズ)という本ががあって、そこでは現代の「クラ」が歴史的クラと混同されずに慎重に描き出されているのだが、本書では誰も言及していない。結局、近頃の社会学と同じく「何でもかんでも合理的選択だ」になっているような気がしてならない。しかしそれは文化人類学の自殺行為ではないか?

どうしてそんなことになるのだろう。1つの理由は、先行研究を無視したり、軽視したりする風潮にあると思う。編者の岸上自身そうした風潮に抗うためにモースを取り上げたと言うが、古典だけが先行研究ではない。大学の研究者の論文だけが先行研究ではない。もちろん限られた時間と紙幅で、すべての先行研究に言及し、検討することは不可能だ。でも、つねに未来からだけではなく過去からの「反証可能性」にも開かれていることが、科学として欠かせないのではないだろうか。

藤野裕子本への書評で嫌みを爆発させたように、私のは単に無視され、軽視された者のひがみかもしれないが、でもあえて、研究者の七つの大罪の1つは「無視」であると言っておきたい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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