「正義の帝国」の成立基盤:天野郁夫のエッセイに教わる

先便で考えてみた福武・日高の「正義の帝国」の成立基盤について、新しい検討材料に出合った。『学士会報』に(何で会員なのかって?それは結婚式を挙げたからです)、天野郁夫が「七帝大物語」というエッセイを連載しているが、その921号に戦後の帝国大学の動きを彼らしく明快にまとめている。大先達の海後宗臣(私の師匠のお父さん)といい、天野といい、学校教育史は制度史の華だと思う。

まず興味深いのは、戦争の先棒を担いだ帝国大学が敗戦後直ちに自らの過去を墨塗りし、「復興」に乗り出していったことだ。まあ、恥を知れ、といいたい。なかでも、戦時中千葉に作られた東京帝大第二工学部が廃止されるかと思いきや、生産技術研究所として一部の講座を保全しつつ、残りは文系学部で山分けしたらしい。なるほど、私が学生の頃、生産技術研究所は原広司や藤森照信がいる研究所というよりも、あの「強い連隊、三連隊」の旧庁舎にある研究所という印象だったが(アールデコがかえって不気味)、それは偶然ではなかったのだ。また、そうして散らばった講座を50年後に再結集したのが、あの柏キャンパスだったのだ。いずれSGUがSMU(Super Military University)になり、柏キャンパスに「造兵学科」の看板が復活しないとも限らない(私が学生の頃、工学部の建物の入口には、木の看板で隠してあったが、まだ「造兵学科」の鋳物の看板が掛かっていた)。

さて「正義の帝国」である。東大、京大以外の帝国大学は文系学部が小さな寄り合い所帯だったので(法文学部)、この焼け太りに乗じて、文学部を新設するところが多かったという。まず東北、これは新明正道。九州、これは古野清人で後内藤莞爾。さらに文系学部のなかった北大は鈴木栄太郎、阪大は喜多野精一、最後の名大は阿閉吉男。新明を除けば皆広義の戸田貞三門下で、「福武・日高」の兄弟たちだ。これが金子勇先生が聞かせてくれた、内藤莞爾の嘆き節の正体だ。

さらに「帝大物語」なので小さく触れているだけだが、各帝大になぜか教育学部が新設されたことも興味深い。そして、たとえば東大の場合、教育学プロパーの海後宗臣に中国の家族制度の研究者の牧野巽がなぜか教育社会学担当として配されたのだ。その牧野の後任は、これも教育社会学者ではない、福武の一番弟子の松原治郎だった。

教育学の「植民地化」は、旧師範学校がこれまた焼け太った学芸大学・教育大学に広がっていく。なかでも「帝国」の直轄領は東京教育大学(有賀喜左衛門と岡田謙、そしてお目付役の中野卓)と東京学芸大学(今井時郎、後には浜島朗や私の師匠や倉沢進、そして高橋勇悦)で、北大も東北大も、教育学部の教育社会学講座は文学部社会学講座の出店となっていく。このあたりのことは竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)が詳しい。

しかし、こうして栄華を極めた「帝国」も、私が駆け出しの頃に黄昏を迎えていた。その象徴の1つは私自身が経験したことで、私が山梨大学に赴任した95年、教育学部になぜか3人も社会学のポストがあって、さらに教育社会学と社会科教育の2ポストを合わせて5ポストもあったのが、今は1ポストもなくなってしまったことだ。

もう1つは東大で有名で有能な社会学者というと、本田由紀さんとか仁平典宏さんとか、教育学部教育社会学研究室出身の方が多いことだ。対する、わが母校文学部社会学研究室の方は・・・。

私はまさに帝国の黄昏の残照の中で、帝国の廃嫡として社会学者になったのだった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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