トクノスクールの特別授業:徳野貞雄先生に学ぶ

このブログで「徳野貞雄先生はすごい!」という記事を書いたら、人伝に先生の耳に入り、上京のついでに市ヶ谷に立ち寄ってくださり、ちょうど2時間、トクノスクールの特別授業を受けることができた。話ははじめブログで取り上げたNHKBS「どんとこい、人口減少」制作秘話から始まったが、すぐに『農村の幸せ、都会の幸せ』(2007,NHK生活人新書)に盛り込まれたトクノ社会学全般に広がり、刺激されっぱなしの2時間だった。

なかでも私が考えさせられたのは、『農村の幸せ、都会の幸せ』の副題が「家族、食、暮らし」と、家族が最初に置かれていることの意味を正しく受け取っていなかったことである。徳野先生は、理念や概念ではない実態としての家族が、世帯経営や地域定住を超えて広がる一方で、それらをダイナミックに支えていることにもっと注目すべきだとおっしゃる。この考え方はもともと社会学でも文化人類学でも当たり前であったものが(でないと、たとえば華僑の研究は成り立たない)、私たちは1920年国勢調査以降の近代日本の経験(世帯と家族を同一視してしまうこと、あるいは核家族化)に閉じてしまい、そうした見方を失っていたのだ。かの「T型集落点検」もこの理論的視野に基づく、(集落以上に)家族再発見のためのツールなのである。

ただ、私はこの点に年来異論がある。たしかに家族は実態として、あるいは結果的に支援と協力を生み出し、支える関係性ではあるが、一方で、とくに日本的近代家族においては、S.フロイトやA.アドラーがよく引かれるように、支配と競争のために動員される関係性でもあり、そのことが「家族を捨てていいですか」という結果をもたらしているのではないか。そこから自由にならない限り、どれだけ支援と協力が必要でも、私たち日本人はもう家族を創らないのではないか、受け継いだ家族も廃業してしまうのではないか、ということである。

もう1点感銘を受けたのは、徳野先生が「社会学はコミュニティの学である」と信じて取り組まれていることである。私なら「人間の集合態の科学的研究」みたいな腰の抜けた定義でお茶を濁すところを、彼はまっすぐに持続的協力の諸形態を(理念からではなく)現実から取り出し、(追認するのではなく)育成することを提唱される。先の家族論もその着手点なのである。たぶんそれは徳野先生の天稟であるだけでなく、彼の師匠の1人である、鈴木廣先生の薫陶にもよるのだろう。

しかし、私はやはりこの点にも異を唱えたい。コミュニティの外側、あるいは底には競争と無関心だけが漂っているのだろうか。否そこにはもう1つの社会、もう1つの関係が存在し、コミュニティさえも、それがあってはじめて成り立つのではないだろうか。実はこの主張も私のオリジナルではなく、タネは鈴木栄太郎である。『日本農村社会学原理』がながながと集団について述べたあと、急に「自然村の統一性とその社会意識」となるのはどうしてか、ということなのである。徳野先生の言葉を借りれば、消費者の四類型のなかの「どうしようもない消費者」にまず照準する社会学が必要だなのだ。

1つ同じブログのなかでお詫びしておきたい。先便で徳野先生の風貌を松本零士の「『男おいどん』のような、と記した。長く九州で活躍されていることからそう書いたのだが、徳野先生のご出身は大阪の貝塚である。それ以上に私は、先生の男らしい風貌がうらやましいな、と思っているのである。筋肉をむき出したり、才能を見せびらかしたりするのが男らしさではない。そんなことよりずっと豊かなところに、ほんとうの男らしさというのはあるのだと思う。

 

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください