カラヤンの悲愴:性に目覚める頃の思い出

NHKETVの「クラシック音楽館」で70年代のカラヤンとベルリンフィルのチャイコフスキー『悲愴』のビデオのリマスターを放映している。聴いていると昔のことが思い出されてくる。

小学校4年生の時、亡父の友人のレコードマニアの家に招かれ、最初にかけてもらったのがEMIのウィーンフィル版の『悲愴』だった。まだクラシック音楽の聴き始めで、どれが何の曲で誰がどんな指揮者かほとんど知らなかった。教育テレビで視聴したカール・ベームの来日公演の『田園』がよかったな、くらいなものだった。

目の前のテレビではずっと目を瞑ったカラヤンが、泥を捏ねるようにバトンを回し、所々で異常な盛り上がりを創り出している。そうだそうだ、子どもの私はこの音に囚われて、その夜一睡もできなかった。魅せられてではなく、怖くて寝られなくなってしまったのだ。それは悲愴ではなく恐怖だった。何が?分からないままこの曲を聴くことを封印してしまった。封印を解いたのは高校3年生、自分で買ったグラモフォンのムラヴィンスキーとレニングラードフィル盤。それは厳しくも美しい音楽だったが、どこも怖くなかった。なぜ?

老いの坂のとば口に立った今聴いてみると、その恐怖は「性に目覚める頃」のゆえのものだったことが分かる。身体の内側から吹き出してくる性欲におびえ、それをさらに引き出すような音楽に困惑したのだ。それはけっして異性を慈しみ、子や孫を育むような健全なものではなかった。今も?いずれにせよもう取り返しはつかない。今はただ老いの坂を転がり落ちていくばかりである。

 

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「歴史に抗する社会としての都市」批判:休日のドライブ風景から

連休中少しはどこかへ行きたいが、どこへ行くのもはばかられる。家族は海が見たいというので、うちからいちばん近い海に行くことにした。要は近所の川沿いに河口まで下るのである。県道59号線。

少し下ると中世の鎌倉往還と交差する。地名は古鳴海(海に成る)。さらに下ると今度は近世の東海道と交差する。地名は鳴海。そこで右折して川を渡り、名鉄本線の踏切を越え、東海道線、東海道新幹線をくぐると、もう海端の感じが出てくる。地名は星崎。昔懐かしいドームにジュースが吹き上がる自動販売機で名を馳せ、今は業務用冷蔵庫のトップメーカーの由来の土地だ。

信号待ちの間ふと脇見をすると小学校のフェンスに「伊勢湾台風記念碑」の看板が。後で調べると、この小学校の70人近い子どもの命が喪われたそうである。地名は柴田。この辺りではしばしば遠浅の浜に芝(柴)の文字が当てられる。この先は台風の後埋め立てに埋め立てを重ねた重化学工業地帯。かつて毛細血管のように張り巡らされた専用貨物線は今はすべて草に埋もれている。しかし港は死んでいない。岸壁には色とりどりの砂利が積まれ、何社もの小型運搬船が行き来する。その一角に、火力発電所のオマケとして造られた市営の庭園があって、そこが今日の目的地である。ガラガラかと思ったらけっこうな混雑。あまり長居せずに帰ってきた。

時代時代の社会は互いに無関係かもしれない。またそこに生きる人々も、伊勢湾台風に泣いた人々とコロナに惑う私とがそうであるように無関係かもしれない。しかしその堆積物である現在の都市に「歴史がない」とはいえないだろう。小学校の校庭の雑草に埋もれた記念碑のように、それはしずかに息づいている。かつて私が揚言した「歴史に抗する社会としての都市」(拙稿,2006,「地域社会学の知識社会学」『地域社会学講座1 地域社会学の視座と方法』東信堂.)が都市の皮相な一面しか捉えていないことを、休日のドライブの間に少しだけ考えさせられたのである。

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専門家としての見識を疑うよ:テキトーの上塗り

ある仕事が終わってやれやれと思っていると、その仕事の量についてのアンケート依頼がメールで届いた。これまでになかったことだ。スルーしない方がよさそうなので質問のリンクを開けてみる。「あなたは1つ1つの仕事に何時間かけましたか?」うっ、たぶん他の人の半分もかけてないぞ。手が早いのではなくテキトーだから。リポートだって他の人の半量以下だったもんな。だって書くことないし。まあ、間を取って4分の3くらいの量を選んでおこう。「あなたは全体の仕事に何時間かけましたか?」うっ、ヤバい、第1問の合計と矛盾するとウソがバレる。しかし合計してみると4分の3でも少ない感じで、さらにテキトーさが際立つ。結局選択肢の真ん中に○をつけてしまう。「今後どのような点を改良すると仕事がしやすくなりますか」えっ、この仕事今年で終わりじゃなかったの?

先方には悪意はなく、ただ本務の片手間としての仕事量の削減方法を探りたいのだろうが、何だか「自己点検・自己評価」みたいなアンケートだった。できれば私を信頼してくれて、仕事の前に「今年は後で仕事量の振り返りアンケートをしますから、記録をつけて置いてください」と言っておいてほしかった。それならウソは書かん。

ともかく、いやしくも「社会調査法」それもアンケート調査法を教える人間のすることではない。おおいに反省。こんな仕事ぶりではとても勲章なんかもらえないな、と朝刊の春の叙勲欄を眺めながら思う。今田先生、おめでとうございます。

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小津安二郎の迷宮:『彼岸花』再見

同僚には「妾宅」と言われるがそんな甲斐性はなく、東京の下宿に泊まる夜はただ片付かない雑用を眠たくなるまで片付けるだけである。それにも倦むとDVDやPrime videoで昔の映画を見ることがたまにある。先日久しぶりの上京の際見たのは小津安二郎監督の『彼岸花』(1958,松竹)。私が最初に見た小津映画、修士論文の合格発表の後いよいよ後戻りできなくなったと観念したときに急に見たくなって、銀座並木座に駆け込んで見たのもこれ。ひどく好きなのである。

今手元にあるのは授業資料用に買ったセルDVD、何の授業かって?見田宗介先生の『近代日本の心情の歴史』(講談社学術文庫)を紹介する時に、第二次世界大戦前の男の子の心情を想像させる材料にするのだ。DVDがないときは自分で下手な歌を唱っていた。

この映画は基本的には美人女優を見せるための映画だが、終わり近く(まるでクラシック音楽のコーダのように)突然主人公を含む男たちが唱歌「大楠公」を合唱し、そのメロディがエンドロールにも重ねられる。なぜ主人公たちは「大楠公」を唱うのだろう、というのが私の学生への問いかけである。ちなみに私のTwitterのアイコンは、この映画へのリスペクトを込めて皇居前広場にある大楠公像である。

しかし今回印象に残ったのは、「大楠公」を唱う菅原通済でも江川宇礼雄でもなくて長岡輝子だ。主人公の家の家政婦の役で、ほとんどセリフはないものの割と映っていて、とくに「おちょやん」浪花千栄子にからかわれるシーンは出色である。浪花千栄子も一応美人グループにいれれば、この映画の不美人は長岡と小料理屋「若松」の女将役の高橋とよだけである(バー「ルナ」のマダム役の桜むつ子もまあ美人グループ入れておこう)。長岡と高橋、日本新劇(左翼)女優史に燦然と輝く2人、しかし2人の向こうには、同じく美人ではないが美醜のレベルを超えてしまった神、杉村春子がいる。事実、この映画のリメイクのリメイク『秋刀魚の味』では杉村が不美人の役を凄絶に演じるのだ。

ここからが私流の「小津安二郎の迷宮」探訪である。長岡と高橋、長岡が陰、高橋が陽のダイコトミー。美人グループも田中絹代、有馬稲子の東京組が陰、浪花千栄子、山本富士子の京都組が陽。男たちも笠智衆が陰、佐分利信が陽。佐田啓二が陰、高橋貞二が陽。つまりあらゆる登場人物が陰と陽のダイコトミーの組み合せでできているのだ。それ以上に、未来の家庭に向かって結婚にいそしむ女たちが陽、過去の少年時代を追慕する男たちが陰というのが、この物語の基本構造なのである。女たちの象徴が秋の死の花「彼岸花」で、男たちの象徴が初夏の生の葉「青葉繁れる」(「大楠公」の歌い出し)であることにもヒネった面白さがある。

ああ、私は吉田民人先生の「社会学原論」講義の名調子を思い出す。T.パーソンズの「型の変数」が無限に拡張され、2分割が4分割に4分割が16分割に、まるで蝦蟇の油売りの口上だった。それぞれのダイコトミーに意味はない。ダイコトミーの繰り返し、バリエーションにこそ意味(存在理由と言うべきか)があるのだ。

もっともレヴィ=ストロース流に言えば、ダイコトミーには両者をつなぐ第三項あるいはゼロ価の項が必要だ。田中と浪花の間に長岡、有馬と山本の間に久我美子、笠と佐分利の間に中村伸郎、では女たちと男たちの間には何があるのか。その答えは主人公の名前「平山」にある。戦争を生き延びた彼は娘の結婚に駄々をこねるダメ親父でいられるが、『東京物語』(1953年,松竹)の「平山」は美しい妻原節子ひとりを残して戦死し、戦後の世界にはまったく不在である。ということで、はなはだ粗雑で唐突ではあるが、第三項とは戦死者であり、この映画の真の主題は男たちの敗戦とその後、なのである。

てな話を、とても好井裕明先生や長谷正人先生の前じゃできないな。ここだけにしとこ(笑)。

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何とも言えない変な思い出:木下順二をめぐって

24日朝日書評欄に、保阪正康による山本武利『検閲官』(新潮新書)の書評が載っていて、『夕鶴』の木下順二がGHQ検閲官として働いていたという山本の推測に触れている。私は『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版局)以来山本を尊敬しているので、その推測は正しいのだろうと思う。それに関わって昔の何とも言えない変な思い出が蘇ってきた。

駆け出しの頃、成りゆきから北川隆吉先生のカバン持ちのような仕事をしていた。当時北川先生は退職間際の超新星爆発のような仕事ぶりで、次から次へと空想的な企画を打ち出しては周りの人をたくさん振り回していた。いわゆる進歩的知識人と連続「対話」を行って雑誌に連載するというのも1つで(『戦後民主主義「知」の自画像』)、本人は「最後に落とすのは丸山眞男」と張り切っていた。私も連れ合い込みで(北川先生は連れ合いによくしてくださった)巻き込まれ、磯村英一訪問の際は2人でお伴をしたし、また私は小倉武一、連れ合いは中村哲訪問のお伴をした。いい指導でしょう。私には福武直を、連れ合いには柳田国男をもっと勉強させたいというのである。

しかしどの企画も最初はいいがすぐに企画倒れになってしまう。本人も鬱滞してしまうのである。そんなある日、北川先生が勢い込んで新婚宅に電話してきた。北川先生はきっかり8時、ちなみに宮島喬先生はきっかり9時、そこがお二人の違いである。「スゴいだろう。木下順二に会わせてやるぞ」確かにそれはスゴい、私たちも興奮した。「さすが昔の左翼は人脈の大きさが違うわね~」。ちなみに見田門下の連れ合いは、木下その人より演出の竹内敏晴(『言葉が劈かれるとき』ちくま文庫)の方が近しい。

ところが、である。次に先生から来た指示がオカしかった。本人には直接連絡が取れない。間に入ってもらう人がいる。その人に依頼状を届けてほしい。千駄ヶ谷のある家のポストに書類を手差しで入れてほしい。冷たい雨のふるある日、私たちは古い民家を探し当て、ポストに書類を差し込んだ。「まるでプロレタリアート文学だね」と、冷えた身体を駅前の紅茶店(たぶんルピシアとして有名になる前のレピシエ)で温めながら、私たちは語り合った。それっきりである。だいぶ経ってから北川先生から木下に断られたと寂しそうな顔で伝えられた。

でも若い私たちには、『夕鶴』や『子午線の祀り』の木下にそうした裏面があることを知っただけで勉強だった。そのことを保坂の記事で思い出したのである。

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ストラビンスキー頌

ストラビンスキー没後50年だそうである。亡父が持っていた『リーダーズ・ダイジェスト世界名曲集』というレコードセットのトリがストラビンスキーで、解説に大きくピカソの描いた肖像画が掲げてあった。その素晴らしいこと!釣られて音楽も聴いてみたら、冒頭のファゴットからもうメロメロ。私にとってクラシック音楽で1曲と言えば、ズバリ『春の祭典』である。はじめて自分で買ったのはショルティの廉価版。音が隅々まで澄んでいた。今はブーレーズのグラモフォンの方。この間You Tube でアルゲリッチバアさんとバレンボイムジイさんが連弾しているのを見つけたが、これもよかった。

巷間語られる初演のスキャンダルは饅頭の皮に過ぎず、この曲の餡はそのクラシックさだ。冒頭の数分間など、ハイドンが書いた木管八重奏曲といってもいいくらいだ。 You Tube だと総譜めくりつきの映像も見られるが、実に整然としていて、私のような小学校程度の楽譜リテラシーでも十分読んで楽しめる。ただ、ストラビンスキーをこの曲ばかりで語るのはどうか。『兵士の物語』や『エディプズ王』ももっと取り上げたがいいと思う。

26年前のイタリア新婚旅行、「死の文化」を研究する連れ合いはヴェネチアのサン・ミケーレ島を見たいという。全部墓地の島である。それならストラビンスキーの墓に詣でよう。それは島の片隅の「ギリシア人たちの墓地」すなわち正教徒用の墓地にあった。冬の海風にさらされたそれは、言いようもないほど寂しいものだった。

葬式で流してほしい曲という言い方があるが、私は(葬式はどうでもいいが)「パストラール(声のないのがいい)」。「そりゃ『怪獣大戦争マーチ』でしょう」って、ちがうちがう!

 

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ああかの幸福は遠きにすぎさり:55歳の誕生日を迎えて

表題の章句は、萩原朔太郎の詩「広瀬川」の一節である。連作『郷土望景詩』の1つで、高校の国語の授業でこの詩人を教わってから、よく知られた口語体の『月に吠える』や『青猫』よりも、これ以降の文語体の詩編を愛唱してきた。この詩作の時点では、まだ朔太郎の人生は荒廃していない。しかしすでに将来を予感させる。「われの故郷に帰れる日、汽車は烈風のなかを突き行けり・・・」

若い頃の親友が、ともに遊んだ九州湯布院の宿の風景をFBに上げていて、懐かしさと寂しさに浸った。当時が幸福で今が不幸というのではない。ただ昔と今の懸隔に呆然としているだけだ。当時は人生は足したり引いたり、誠実に取り引きしていけばだいたい黒字で終わるだろうと思っていた。途中で破産するとは思ってもみなかったのである。あの宿にもそのうちまた行けると思っていたが、仮に破産してなくても、今はとても行ける気がしない。

繰り返しになるが今が不幸というのではない。私と同じような生活をしている同業者のエッセイを読んで、私よりずっと順風満帆な様子を少しうらやましく思ったが、省みれば私の生活はそれなりに充実している。職場も家庭も、市谷の教室から多摩の下宿に帰る深夜の京王線ですら、落ち着いた心でいればみな私の居場所であり、かけがえのない「至高の現実」である。この誕生日もFB上で多くの友人から温かいメッセージをいただいたし、さりげなくお菓子を届けてくださる同僚もいた。ありがたいことである。

だから、冒頭の章句に続く結句「小さき魚は眼にもとまらず」とは、過去が幸福なあまり今のささやかな幸福を感じられないのではなくて、「広瀬川白く流れたり」、その流れの速さに立ちすくんでいるからだ。若い頃は流れに棹さして幸福を探す旅に出たが、今その流れはただ虚無の大海に流れこもうとするばかりだ。信仰を得ればよいのか、それとも。56歳で亡くなった朔太郎は「虚無の中にある私を信じる」と絶唱している。

 

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天行健:近衞文麿という人への興味

「天行健、君子以自彊不息」、『易経』の卦の1つだそうである。

野口昭子『回想の野口晴哉 朴葉の下駄』(2006,ちくま文庫)に、夫晴哉に言われて父近衞文麿に「天行健」と書いてもらう話が出てくる。1945年7月敗戦のひと月前、晴哉と疎開していた新潟から軽井沢の別荘にいた父に呼ばれたとき、晴哉は彼女にそう伝言したのだった。彼女は文麿の長女だから、世が世ならば「あきらこ」とか「しょうし」と呼ばれて入内したであろう人である。

晴哉本人は随筆『大弦小弦』(1996,全生社)にその背景を記している。元々彼の道場には東郷平八郎から贈られた「千慮無惑」(ママ、不惑か?)の額が掲げられていた。それを見た文麿が「この複雑な時勢、私なら『千慮千惑』だ」と言ったので、晴哉は答えて「天行健を信じれば無慮無惑だ」。文麿「私にはまだ天行健は書けない」。

スターリンへの講和特使出発を前にして娘を別荘に呼んだ文麿に、晴哉はなぜ天行健を書いてもらうよう頼んだのだろう。昭子はその点に深く思い巡らしているが、晴哉の方は届けられた書を「自信のない字」と一刀両断している。しかしそれを額装してずっと道場に掲げていたそうである。そして自らも死に臨んではじめて「天行健」と書いた。

私は若い頃「電力の鬼」松永安左エ門を研究したときに(何の研究?)、松永がひどく文麿を嫌っていたので、それを鵜呑みにして彼のことを軽んじていた。この間ふと上記のことを思い出して、それはそれで面白い人物だったのだな、と興味が出た。

ちなみに世に知られる文麿の絶筆は「松上雪」だそうである。冬中常磐の松を覆い、春が来れば消えていく白雪ということか。あまりに軽薄な虚言と言えば言えるが、本人には深刻な誠実があったにちがいない。そこが面白いのである。

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彼岸に向かわれる先生へのムマの鼻向け:高校時代の恩師の訃報

久しぶりの長い上京仕事を終えて帰宅すると1枚の葉書が、高校時代の国語の先生の訃報だった。ずっと年賀状のやりとりがあったのでご遺族が知らせてくださったのだ。合掌。

私の母校灘中高では(今はどうか知らないが)中高の6年間主要教科の担任は持ち上がりなのだが、色々事情があって先生は高校2年から私たちの担任となった。その事情のせいではじめは先生も私たちもある種のよそよそしさがあったと思う。

第1回の授業で、先生はいきなり柿本人麻呂の長歌「玉だすき畝傍の山の」を暗記、朗唱するように指示された。その時はっきりそう思ったわけではないが、確かに私はそれを私たち(少なくとも私)への挑戦と受け取ったのだ。朗々と寸分たがわずに唱してやろう。その時先生は、私に研究という行為のキホンのキを一瞬で叩き込んでくださったのだ。

先生の授業は完全な作家作品研究主義で、次々と作家や作品のプリントを配って解説していった。それを通して私は萩原朔太郎と室生犀星の友情と蹉跌、とくに「ふるさとは遠きにありて」への朔太郎の「誤読」から始まる論争を知った。私の博士論文が萩原朔太郎論で始まるのは、先生のおかげである。

先生は京都大学文学部出身で、研究者を志したが果たせず高校の教師になったと明言されていた。生まれつきの手の障害も原因の1つだったのだろう。しかし先生はその手を1つのキャラクターにまで昇華されていた。私たちはその小さな玉のような手を見ないようにするのではなく、その手が教科書やプリントを巧みに支えるのをまるで手品のように見ていた。

いつだったか、先生は鈴蘭台(六甲山の北側の新興住宅地)からの通勤路で見る山のコブシの花の美しさを「辛夷」という漢字とともに熱く語られた。これまでもこれからも、春コブシの花を見る度に先生の奥床しいお人柄を思い出すだろう。

柿本人麻呂の次か次の次かは『伊勢物語』、「馬の餞」という言葉が文字通り馬の鼻を向けるという意味であり、昔は馬を「ムマ」と読んだという話を熱心になさったので、私たちは先生イコール「ムマの鼻向け」と思っている。だからこの訃報を聞いた同窓生たちは皆「ムマ」あるいは「ムマの鼻向け」という言葉を思い出したにちがいない。

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様々なる意匠:書架の片隅から昔の本を

新学期が始まって1年間放ったらかしだった研究室の書架を眺めてみる。前から再読したく思っていた本が目にとまる。『小林秀雄初期文芸論集』(1980,岩波文庫)、もちろん中学生が買うわけもなく、大学院生時代に買った1993年の12刷だ。専攻する都市論でしばしば引用される「故郷を失った文学」(1933)をていねいに読むために買ったのだと思う。

高校の国語で小林秀雄の精読という授業があった。東京高師出の嫌味な先生で、小林への信仰告白を強要するような内容だったので不貞腐れていたら、1時間ひとりで発表する羽目になってしまった。色々考えた挙げ句「この人は本当は何も言いたいことがないに違いない」という結論を話してしまった。当然先生は怒って、いっそうねちねちと非難した。彼は「お前は不勉強な上に高慢だ」と言ったが、これはまったく当たっていた。それ一本でここまでやってきたのである。

小林を再読しようと思ったのは、近頃幾度も「様々なる意匠」という言葉が思い出されるからだ。27歳の小林は意匠を超える営みとして近代文学を積極的に評価し、そこを自分の批評の原点としているのだが、55歳になる私の方は退嬰的で、まああれもこれも「様々なる意匠」に過ぎないな、と思考を途中で投げ出す言いわけにしているだけである。

相変わらず文体は好きになれないし、「様々なる意匠」も「故郷を失った文学」も半分くらいしか分からないのだが、小林が近代文学を通して求めていたことは何となく分かるようになってきた。小林なら社会という言葉こそもっとも粗悪な意匠だと言うだろうが、私は社会と名指されるものこそ意匠に回収できない何かだと言いたい。その意味では、もし私が考えていることにまだ意味があるなら、私の考えすなわち社会学は小林のいう近代文学とほぼ同じだと言っていいだろう。

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